ライカ

　物心が付いた頃には、もう１人だった。それが当たり前だった。
　１人の巻き毛の少女は、そうやって生きていた。
　その日、いつものように路地裏の通りをふらふらと歩いていると、１人の男に出会った。彼は優しい目をしていた。
　男は少女の手を引くと、自分の家へと連れて行った。

　少女には名前がなかった。
　その男が名前を付けてくれた。
「ライカ」
　少女はその日から「ライカ」になった。
　男がライカを呼ぶと、ライカは不思議な気持ちになった。

　幾らかの月日が経った。ライカは男と一緒にいた。
　ずっと１人だったライカを拾ってくれた男。
　１人が当たり前で、なにかを感じることなんてなかった。ただ生きていくことに必死だった。
　男が現れてから、ライカの日常は180度変わった。
　名前すらなかった彼女を「ライカ」と呼んでくれた。それだけで嬉しくなれた。
　正直、最初は戸惑っていた。今までと違って、食べ物に困ることもない。生きるために、死ぬ気で誰かから物を奪うなんてこともない。誰かに殴られたり、蹴られることもない。蔑むような目で見られることもない。
　男は優しい目でライカを見た。優しい声でライカを呼んだ。
　そして感じる不思議な気持ちが、「嬉しい」や「幸せ」だと理解するまでに時間を要した。
　いつの間にか、男といる時間が「幸せ」だと知った。ライカは男の隣でただただ微笑んでいた。

　そんなある日、男に連れられて、見たこともない場所へとやって来た。
　別の見知らぬ男が、ライカに色々なテストをさせた。
　これが、男にとって必要なことなら――ただ素直に答えた。

　また今日もこの場所へやって来た。
　今日も、テストを出される。それにライカは答える。

　この場所にいる時間の方が長くなってきた。男の家に帰りたい。
　今日も出されるテストに答える。

　そんな日がしばらく続いた。
　男に会いたい。帰りたい。

　久しぶりに男に会うことができた。男は相変わらずの優しい目で笑った。
　――ライカ、頑張ってるよ。
　男はずっと微笑んでいた。
　そして、ライカは新しい服を着せられた。見たこともない変わった服だった。ライカは笑う。男は相変わらず微笑んでいる。
　――かわいい？
　男は頷く。ライカもずっと笑っている。
　また男に手を引かれて、今度は開けた場所へとやって来た。
　見たこともない小さな箱のようなものが、そこには存在していた。
　ライカはよく分からなかった。そして、男の顔を見た。
　そこへ、何人かの人間がやって来た。
　そうして、ライカを箱の中へと誘う。困ったように男を見た。男は薄く笑った。
　わけの分からないまま、箱の中へと閉じ込められた。その小さな窓から、男が見える。他の人間も見える。
　……男が笑っていない。
　ライカはその時初めて「恐怖」を知った。

　箱は彼方へと放り出された。それは、激しい重圧と轟音と熱と恐怖を伴って――。

　ライカの叫び声は届かない。もう男にはなにも届かなかった。

　男の目に箱が映っている。それはどんどん小さくなって、やがて消えていった。
　残された男の優しかったその目には、今はただ悲哀が浮かぶ。


　そしてまた幾らかの時間が過ぎて、ライカの名前は今や世界中の人々に知られるようになった。
　――世界で初めて宇宙へと飛び出し、そのまま科学の犠牲となった彼女の名前を。


「ライカ」
　男が呼んだ。少女を呼んだ。
　最初は死んでいるような表情をしていた少女の目に、いつしか光が宿っていた。名前を呼ぶと、彼女は笑った。いつも笑っていた。
　今は１つの星になった少女を夜空に向かって呼んでみる。「ライカ」

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　元にするだけで、そのままにするつもりはなかったんだけどなぁ……。ほとんどそのままになってしまった……。
　大体分かるとは思いますが、元ネタは、まんまライカ――犬ですね。クドリャフカが正しい（？）名前かな？　宇宙へ初めて行った生物です。
　わけの分からないまま、宇宙への片道切符を渡されてしまった犬の実話が元です。想像やフィクションもかなり追加されてますので本当にそのまんまではないのですが。
　少しだけ実話の話を書いておくと、クドリャフカは迷子になっているところを拾われた犬。様々な訓練を受けて１匹でロケットに乗せられ――打ち上げ数時間後に過熱とストレスで死亡したということです。
　……クドリャフカ――ライカが少しでも幸せであったならと、祈ります。
　ぶっちゃけこれを書いているのは9月ですが、命日であろう11月3日にアップします。