猫と彼女と涙の世界

 時は20XX年――
 巨大な隕石が地球を直撃した。
 その衝撃と爆発、そして発生した津波により、人類は滅んだ。
 また、続く異常気象で南極の氷が溶け、世界は水の底へと沈んでしまった。
 ようやく平穏を取り戻したその後の世界で文明を築き上げたのは、素早い動きで高いところへ逃げ、難を逃れた 猫 だった。

「本日は海底の調査だ。アクア、頼んだぞ」
 1匹の猫がもう1匹の猫――アクアに向かって声を掛けた。
 ――とうとう1番やりたくない仕事が回ってきてしまった。
 アクアは溜め息をついた。
「…………水は苦手だ」
 おもわず呟く。
 アクアに指示を出した猫は、その言葉に笑う。
「水が得意な猫なんて変わり者だ。みんな苦手だが、少しでも文明の発展の為に調査をしているんだ。諦めて調査へ向かえ」
 潜水服に身を包み、アクアは大きく広がる海を見下ろした。
 ――水は苦手だ。涙みたいで。
 そんなことを思いながら、とうとうアクアは観念して、海の底へと身を投げた。

 目の前を大量の魚が泳いでいく。
 美味しそうだなぁ。せっかく海に潜ったんだし、調査じゃなければ魚を追いかけているところなのに。と、アクアは少し残念に思いながら、海底に沈む文明の姿を確認する。
 そこには崩壊した建物がたくさん眠っていた。中にはしっかりと佇んでいる建物もあった。
 昔はそこに『人間』という生物が生活していたのだろうが、今は魚達の棲み処となっている。
 さて、ここから先のエリアは今回が初の調査となる。現状を確認して、しっかりと目に焼き付けておこうと、アクアは周囲を注意深く観察し始めた。
 手足をバタつかせながら、先へ先へと進んでいく。
「ココア」
 とつぜんの誰かの声。
 今、この場には、自分1人しかいないはずなのに!
 驚いて声のほうを振り返る。
「ココア」
 そこには、ワンピースを着た1人の女性が立っていた。微笑んでアクアを見ている。
 ――『ココア』とは? いや、何よりも。それ以前になぜこんなところに『人間』がいるんだ!?
『人間』はもう、とうに滅んだはずだ。それに、仮にではあるが『人間』の生き残りがいたとして、こんな海の底で、潜水服もなく、どうやって生きているというんだ。『人間』は我等と同じ肺呼吸だと聞いている。それなのに水の中で生きていて、しかも普通に声を発している。
 ということは、これは、なんだ?『人間』ではない? 非科学的だが、人魚? 妖精、精霊? ……幽霊?
 女性が笑った。
「ココア!」
 もう1度その言葉を発する。意思疎通はできそうか。アクアもヘルメットの下で、声を発した。
「『ココア』とは、なんだ?」
 彼女が何者なのか。それよりもまっさきに出てきた言葉は、そんなものだった。
 彼女は不思議そうな表情を浮かべる。
「…………ココア、じゃないの?」
 返答してきた。会話はできそうだ。
「? 私はアクアだ。海底の調査でやって来た」
「そう、なの……」
 女性はいっしゅん寂しそうな表情を浮かべたが、再び笑顔になると、
「私は水奈」
 そう名乗った。
 アクアはさらに尋ねる。
「水奈はなぜここに?」
 ――『人間』がなぜここに? 生きているのか? 幽霊なのか?
 尋ねたいことはたくさんあるが、慎重に質問をしていく。
「私は、ココアを待っているの。約束したから」
「約束、とは?」
「もう1度会おうって約束だよ」
 なるほど。少しだけわかってきた気がする。
「アクアばっかり。私もいろいろ訊きたいな」
 水奈が笑顔を浮かべて言う。
 それにアクアは頷いていた。
 アクアのことをいくつか話し、水奈のこともいくつか聞いて。そうして、他愛ない話を続けていく。
「そういえば。調査って言ってたけど、なんで猫が調査してるの?」
 水奈が調査について尋ねてきた。
「なんで、と言われても……文明の発展の為だ。今は私達猫が文明を築いているから」
 現在の世界の様子を話す。すると水奈は目を輝かせた。
「今は猫の世界になってるの!? すごい!」
 水奈はよく笑う。
 その笑顔は、なんだかとても心地が良くて、いつまでもここにいたくなるような。
 しかし、そういうわけにもいかない。アクアはここに仕事で来ているのだ。
「……そうだ。調査を続けないと」
 アクアは再び動き出した。――すると、
「私も行く! 私のほうが町を知ってるよ」
 水奈がそう提案した。たしかに、ずっとここにいる彼女ならこの辺りのことに詳しいだろう。
 その申し出に、アクアはありがたく乗っかることにした。

「ここは煙草屋さんがあったの。ここはスーパー」
 水奈は踊るような足取りで、もともとは栄えていたであろう町を得意げに案内していく。
 魚屋の紹介のときは、当時を想像して、おもわず涎が出た。
「こっちは小学校。ここには文房具屋さんがあって――……」
 だんだんと、水奈の声に元気がなくなってきたことに気付いた。
「……水奈?」
 不思議に思い、水奈の顔を覗き込む。
「…………戻る」
 辛そうな表情を浮かべ、水奈はとつぜんそう言い出した。
 いったいどうしたというのか。アクアは驚いて声をかける。
「水奈!?」
 しかし、水奈は脇目も振らず、元いた場所へと駆け出していってしまった。
 それを慌てて追い掛ける。泳ぎが上手いわけではないので、少し時間が掛かってしまったが。
 水奈は、最初にいた場所に再び立っていた。
「……水奈? どうしたんだ?」
「町の様子がまったく変わってしまっているから――」
 悲しそうな表情を浮かべ、小さく落とすように呟く。
「だから、自分がここで待っていないと、ココアがわからなくなって、迷っちゃうから。ココアをここで待っていないと」
 なんだか泣きそうな顔で、彼女はまた笑った。
 その言葉が、表情が、なんだか無性に切なくなって、悲しくなって。
「馬鹿じゃないのか!?」
 気付いたら怒鳴っていた。
 ――世界が海の底に沈んだのは、もう100年以上も昔の話。
 水奈が待つココアだって、もう死んでしまっている。それを知らずに、彼女は待ち続けている。その事実が苦しくて。
「……知ってるよ」
「…………え?」
「知ってるよ。もう、ココアは、いないってこと」
 水奈の言葉に、驚いて顔を上げる。
「知ってるの。ココアはもういない。……最期の時に、言ったの。生まれ変わって、また会いに来てって。ずっと待ってるって」
 ――ココアは水奈のペットの猫だった。猫の寿命は人間よりずっと短い。
 ココアの寿命が尽きる。最期のそのしゅんかん、言葉は通じないが、水奈は大粒の涙を流しながらそう一方的に約束した。
 だから、約束が果たされるまで、水奈は待ち続けるのだ。たとえ、自分の命が尽きようとも。
「私はっ! ココアを待ってる! きっと会いに来てくれるって、信じて待ってるの!」
 約束したときと同じように、水奈は大粒の涙を零しながら、そう訴える。
 その泣き顔には、見覚えがあった。
「……水奈…………」
 ――そうだ。水奈は、いつも笑っていた。なのに、最期のあのしゅんかんだけ、泣いたんだ。

 ココアは生まれ変わっていた。よく似た猫のアクアに。
 いつも笑っていた水奈が、最期に見せた泣き顔に、ココアは衝撃を受けた。
 その泣き顔をよく覚えていた。そうして思い出した。
「水奈」
「…………ココア」
 ――水は苦手だ。涙みたいで。大切な人のあの悲しい涙を思い出してしまうから。
「……水奈。ねぇ、もう泣く必要はないよ。笑って」
 約束どおり、ココアの魂は、今、水奈と共にここにある。
「ココア!」
 水奈が再び泣いた。笑いながら、大粒の涙を零して。力いっぱいアクアを抱き締めた。
 涙は溶けて、温かい水の中へと消えていった。

 どれくらいそうしていたのだろうか。もう酸素ボンベの中身も少ない。
 調査の結果を報告するためにも、戻らないといけない。
 離れ難いが、行かなければならない。そして、水奈も。
「いつまでも、こうしているわけにはいかないな……」
 再び訪れる別れのときを感じて、水奈が寂しそうな顔になる。
 アクアは言う。
「生まれ変わって、また会えるのを待っているから」
 今は辛くとも、再会できるそのときを――
 アクアは微笑んだ。水奈も笑って、大きく頷いた。
 涙と共に水に溶けて、彼女もまた姿を消した。
 そこには、猫だけが1匹、水の中で浮かんでいた。




 きあけ。


――――2016/12/02 川柳えむ